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『ことばの危機 大学入試改革・教育政策を問う』東京大学文学部広報委員会・編

なんのためにこれこれの科目を学ぶのか、と生徒に問われた時のための返事を何ら用意せずに教育の任にあたっている教育者は少ないでしょうが、当然ながらその返答は一つに決まるものでもなく、およそ人によって言うことも千差万別となりましょう。

どうして突然こんなことを述べるかと申しますと、先日、他校における授業の際にやや気になる出来事があったからです。ある生徒が、どれそれの科目は将来何々の役に立つからちゃんと勉強しよう、という趣旨のことを述べたところ、それに同調したある生徒は他方で別のある科目に言及して「これは将来、何に役立つのかわからん」というふうにこぼしたのです。

なんのことはない、前者「将来役に立つから」ということで贔屓にされたのは英語と国語の二科目で、反対に、「何に役立つのかわからん」と言われてその意義を疑問視されたのは数学でした。英語については、みんなこぞって「グローバル」を唱える現代社会にあって「別にそんなもの、要らんだろう」と唱えるほうが度胸の要ることかもしれませんし、国語については、とりあえず読めるものはちゃんと読めるようになったほうがいい、と思って納得するのでしょう。逆に数学については、なるほどこれもみんなが言うように、少なくとも日常で二次方程式の解を求めねばならない局面に立たされることは稀でしょう。実をいうと多くの場合、連立方程式を素早く解く能力は仕事に就いてもさほど重宝されません。

この時、ある科目を学ぶ必要性に関しては、それがどれほど将来「役に立つ」か、という観点から判定されていることにお気づきでしょうか。つまり、件の生徒たちはそれが「役に立つ」かどうかということを価値の尺度とする発想を暗黙裡に共有し、判断の前提としていたのです。

昨今の改訂された教育政策に関連する資料に触れてみれば、子ども達がこのように考えるのも無理からぬことのように思えてきます。そもそも学校のカリキュラムを決める側の大人たちが、こうした有用性の尺度に即して学ぶことの意義を定めようとしているからです。

さて、こうした状況をふまえて今回は、「なんのために学ぶのか」という問いに対する、一つの示唆的な視点をご紹介しようと思います。手がかりを与えてくれるのは、東京大学文学部の教授たちが現今の教育政策について自身の考えを講演した記録を収めた『ことばの危機 大学入試改革・教育政策を問う』(集英社新書,2020年)という一冊の新書から、特に納富信留氏による講演部分です。ここでは、平成30年告示の高等学校学習指導要領改訂にて「論理国語」と「文学国語」という分類がなされた国語教育の改変に関して、そこに言語をツールとしてとらえる見方が剔出され、そうした思想がはらむ問題について触れられています。以下、引用内の強調は引用者によります。

 私たちが話している日本語をツールとして考えることで、国語科について提起されている、文学国語か論理国語か、といった訳の分からない選択が生まれてしまいます。つまり、ツールとしてどちらがより良いか、という選択の対象になってしまいます。何かのためのツールだったら、より有効な方が良い、より役に立つ方が良い、つまり、より効果的に使える方が良い、という発想になります。(本書p.122)

 ツールとして役に立つことばは、持っていた方が良い、身につけるべきだという理屈になります。仕事に就いた時に読解力がなかったらそもそも契約書を読めないでしょう、といった発想です。そんな発想は、基本的にはツールとして、効率という観点だけでことばを取り扱っています。結局、そこで目指されているのは労働力なのです。経済界、産業界が大学で、あるいは高校で教育をしてくれと求めているのは、一番効率よく、仕事がたくさんできる人材を作ってほしいということに尽きます。つまり基本的に、ことばは道具扱いされている。それによって、私たち人間も道具扱いされています。(本書pp.123-124)

ここで述べられているのは、今回の指導要領改訂では、国語という科目において、ことばを伝達のツールとしてみなす視点が前提とされているが、そうであるならば、ことばというツールがいかに「役に立つ」かが重視されることになるだろう、ということです。「役に立つ」というのは畢竟、労働力として「役に立つ」ということです。さて、労働力とは何でしょうか。それは、産業、事業をいかに円滑に進行させるか、という尺度で測定される、まさしくツール=道具です。この意味で、私たちが優れたツールを有していることを期待されるということは、とりもなおさず、私たち自身がツールになるよう要請されているということなのです。そうすると、私たちの知性や批判的思考、人間性や、行為と思考の自由なありかたというものは全く等閑視されてしまうことになりかねません。納富氏はこの点について次のように批判します。

 さらに言うと、人間が人間でなくなってしまいます。つまり、私たちは、何か大きなマシーンの一部になってしまうのです。昔から使われる比喩ですが、チャップリンの映画『モダン・タイムス』のように、機械の歯車の一部となって、私たちもツール化されてしまいます。(本書p.128)

では、ことばをはじめとして、私たちは何のためにものを、特に学問を学ぶのでしょうか。氏は「実用的でない」論理学を学ぶことを端緒に、次のように述べます。

 論理学が実用的でないとして、では、何のためにそれを学ぶのかと言うと、一言で言って、知性を涵養するためです。私たち人間は理性的な生き物であり、知性活動こそ人間の「アレテー」、つまり、本来の善さです。それゆえ、私たちは知性能力を培わなければなりません。先ほど批判したツールという捉え方とは正反対で、それ自体が人間性を実現させる、そのために論理学は必要なのです。(本書p.139)

そうして、本記事の冒頭で紹介した生徒たちのエピソードでも疑問視されていた、数学を学ぶ必要性については、次のような思考が展開されることになります。

 これは数学でも同様です。なぜ小学校、中学校、高等学校で算数や数学を学ばされるか、考えたことがありますか。計算するだけなら、電卓やコンピュータを使えば済むわけですよね。なぜ三角関数など複雑な理論を学ばなければならないかというと、それらを通じて人間としての知性能力を訓練し、知性的なあり方を実現する、そういった「人間になる」ための訓練をする教科が、数学なのです。[…]

 少し格好よく言うと、数学や論理とは、むしろ美的な感覚を養うための訓練です。(本書p.140)

冒頭の問いに戻りましょう。なんのためにこれこれの科目を学ぶのか、と生徒に問われた時、私たちはどう返答したらよいか。いま、一つの方法は、「それは人間として生まれ生きている以上、最も重要な、自由な知性を涵養するためだ」と答えることになるでしょうか。

もちろん、こうした返答は、すぐに次の新たな問いを招来します。では知性とはなんだろうか、という問いです。これもまた考え甲斐のある、そして一意に定めることのできない問題です。

「知性」とは何か。あなたなら、どう考え、どう答えますか?

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