学びの場を立ち上げる時に、僕が優先的に気づかっていたのは、「そこに入るとほっとする」ということだった
フランス哲学を専門とする内田樹氏は近著『複雑化の教育論』(東洋館出版社)にて、子どもが成熟へ向かうプロセスを、精神、思考、感性といったさまざまな特質の「複雑化」にあるものと規定した上で、その「複雑化」を支援する場としての学びの場に、上のような条件を求めています。彼自身が主宰する「凱風館」という私塾の建築的配慮について述べるくだりで語られるこの考えに、自分は深く共感しました。
気持ちが安らぐ。鎧兜を脱いで、胸襟を開いて、オープンマインデッドになれる。外部から到来するものに対して開放的で、受動的になれる。それが学びの場においては死活的に重要だと思った(上掲書p.21)
「アイスブレーク」といって、最初に何か面白いことを言って、笑いをとって「場を温める」という技術がありますけれども、[…]硬く心が閉じてしまった子は、そういう「仕掛け」には簡単には反応してくれない。むしろ作為を感じると、心を閉じてしまうことさえある。
でも、対人関係ではかなりナーバスになっている子どもでも、環境に対しては気が緩む。室温が適度であるとか、空気がきれいでゆったり呼吸ができるとか、触れるものの手触りが優しいとか……そういう環境的なものに対しては、警戒心を持つ必要がないから。だから、「リラックスしても不利益をこうむるリスクがない環境」を用意するというのは、学びにおいてはとても大切なことだと思います。(同書p.21-p.22)
いま、自分が考えているのも、このような、周囲に心を閉ざそうとする子どもにとってさえ居心地がよいと思える空間を、いかに構築しうるかという問題です。対人的に傷ついた過去や屈折を抱える子にとって、沈黙によって接する物質の静けさはいかにも優しく感じられることでしょう。子どもの心のなかの複雑性をいかに承認するか? 周囲の大人に求められているのは、このような承認へむけて、環境的な水準において抜かりなく安らぎの場をしつらえることのように思えます。
他方、内田氏は、そのような「複雑性」が周囲の人間によって受け容れられない子どもは、いわゆる「キャラ化」とも呼ばれる、自己の単純化、平板化をはじめることを指摘します。特定のコミュニティのなかでまとわれた「キャラ」は、そのまま、細胞分裂するかのように日々刻々と変化し、複雑化する不安定な自己を守るための「防護服」として機能します。しかし、思春期のある一時期において特定のコミュニティで与えられた役割である「キャラ」を、いつまでも演じ続けなければならないとなれば、それはいかにも窮屈で、望ましい変化に対してこれを阻害する逆行現象だといえるでしょう。
そうではなくて、子どもたちに必要なのは、複層化する自己の内面を、そのまま無理なく自己自身に、そしてまた他者たちに受容、承認させることのはずです。
自分の中にはそれまで気がつかなかったけれども、こういうところも、こういうところもある。それを自分自身で認めて、周囲もそれを承認する。そのプロセスをゆっくりと漸進的にたどる。それが「複雑になる」ということです。自分は「一言では言えない、捉えどころのない人間」であるということを、本人も受け入れ、周りも受け入れる。複雑化のプロセスを教育プロセスの全体で支援する(同書p.41-p.42)
そうすることで、子どもたちはよほど安心して彼ら自身の成熟のための時間を生きてくれることでしょう。「キャラ」とは退行現象であり、自己を世界から断絶させ、退却させるための方途です。それは時として戦略として有効かもしれないけれども、その演技の裏では、着々と、「べつの世界への抜け道」を用意していて欲しい……いや、たぶんその抜け道を、悶々として、あるいは必死で、彼ら/彼女ら自身、模索しているはずです。
毎朝学校に行って、自分ではない役割を演じるのが鬱陶しくなってくる。学校に行っても、そこにいるのは自分じゃない。たしかに自分の一部分ではあるのだけれども、それ以外の日々変化している部分は「キャラ認定」されない。みんなが聴いていない音楽を聴いたり、みんなが読んでいない本を読んだりと、みんなが観ていない映画を観たりした場合に、それを共通の話題にすることができない。そういう話題を振っても「らしくない」と却下されるリスクが高い。(同書p.46)
もしかしたら、その点、塾講師という立場は子どもたちとの関係において、ある種の特権的地位についているのかもしれません。というのも、塾は学校と比べて、彼らが普段の自分とは異なる自分を振る舞いやすい場所として存在しうるはずであり、ひょっとすると「キャラ」の演技は場合によっては学校の先生をも巻き込んで強固なものとなっているおそれもある一方、別のコミュニティに属するところの塾講師とは、そのような「キャラ」の約束を結んでいないからです。
そのような、学校コミュニティ外にて関わりをもてることの利点を活かして、私は、子ども達には「らしくない」自分になるためのきっかけをたくさん与えたいと考えています。あなたは何か特定の「型」に嵌めて解釈できるような単純な人間ではないし、またそうある必要もないということ。そのことを前提に、自分と世界とのあいだに拓かれてゆくはずの、いまだ手付かずの感受性の回路を発見し、世界と、もっと自由な関係を結んで欲しい。
このブログでも、そのような、不要な閉塞を打破した、あるべき自由のため、広々とした世界への抜け道を用意するための孔を、ときどきこうして穿ってゆきたいと思います。
ここに掲載される記事が、子ども達にとってーーもしくは子ども達でなくとも、このブログを覗いてくれる人たちにとってーー、少しでも呼吸が楽になるための通気孔として機能してくれれば幸いです。